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甘えの構造

よく、話さなくても気づいて欲しいという状況に陥る。たとえば、お店で、品を見ている他のお客のいる狭い通路を通ろうとするときに、そのお客がこちらに気づいてくれるのをずっと待っていたりする。そして、何で気づいてくれないのだろうとイライラし、嫌悪する。ただ、ちょっと通りますよ、と声をかければ良いのに。
土居健郎はこの精神は甘えと呼ぶ。

直観を働かせる秘訣は考えないことである

考える、故に我ありと説いたデカルトも、実は考えない方が理性が働きやすいことを『方法序説』の中で語っている。
ショーペンハウアーも『知性について』で、あまり考えない方が直感が働くようになるという。
仏教哲学でも、瞑想をつかって考えないようにする。
考えない方が上手くいくのだ。

しかし、この考えないというのはどうどう巡りの思考をしない無駄なことを考えないという意味で、大事なことはしっかり考える必要がある。

過労死と教育

今となってはもう昔のことだが、塾にゆうきくん(仮名)という子がいた。彼は小学六年生で、中学受験をするために、勉強一筋の毎日を強いられていた。

ゆうきくんはとてもおとなしい子で、蚊のなくような声である。たまに私に好きなゲームについて教えてくれるがわずかしか聞き取れない。そんなゆうきくんがある日、担当講師にはっきりとした声で「どうして勉強するの」と質問をした。講師からは「お母さんのため」、「勉強しないとどこも雇ってくれない、生きていけないから」などと説明していた。ゆうきくんは納得したのだろうか。その質問は、きっと大変勇気のいることだったに違いない。

私はゆうきくんに、勉強の楽しさを教えてあげるべきだった。人生一生涯勉強であり終りなんてないこと、だから私も先生とは名ばかりであり未熟であって勉強途中であること、ゆうきくんと一緒に勉強できてとても楽しいこと。でも、受験生に勉強を楽しむ余裕なんてないのだ。だから、私は心の中でゆうきくん、ごめん。と呟いた。

受験直前の冬期講習のことだった。「死ぬ気で勉強しろよ。」ゆうきくんの担当講師の熱弁が聞こえた。

ゆうきくんは、今頃はもう高校生だろうか。社会人になったら、どんな社会人になるんだろう。もう二度と勉強なんてしたくないと思うのだろうか。家族のため、生きていくため、疑問を持たずに死ぬ気で働き続けるだろうか。もし、そうなってしまったら、塾に、私に、どのくらいの責任があるのだろうか。

時間が早くたってほしいなぁ

仕事中、または授業中、「早く終わんねーかな」なんて思わないだろうか。

私はしょっちゅう(笑)

 

そんなとき、時間を早く感じる方法に時計をみないというシンプルな方法がある。

時報がなるまでとにかく時計をみない。集中して作業または授業に取組めれば尚よい。

 

どうしても見たいときは、三回みたいなと思ったら見る、という風にして、見る回数を減らす。

 

このような工夫をすると、いつの間にか「気づいたらあと一時間、ひゃっほーい」ってなりますよ(笑)

仏教における利他行について

大乗仏教には、利他の実践がある。昔から、よいことをすれば天国に、悪いことをすれば地獄にとよく言われる。私は天国も地獄も輪廻転生も信じない。比喩だと解釈している。例えば、悪口を言うと嫌がられて独りぼっちになって地獄のようだとか。
私はこの利他の実践を疑問視している。

仏陀梵天勧請を受けるまで、一人で修行していた。ある時までは五人の修行僧たちと一緒に苦行してたが、苦行を辞めて一人でやってみることにしてたのだ。そしたら悟った。だから、仏陀は悟るまで特に利他行をやってないと思われる。
羽入辰郎先生の著書『 支配と服従の倫理学』によると、オウムとナチと大日本帝国にはある共通のデマがあって、それは善行の強制だったという。
だから、私は仏教における利他行も、支配となんらかの関係があるのではと思っている。あの儒教でさえも政治のための教えだったんだから。
あとは、人には自分の人生をコントロールしたいという欲望があるから、それもあると思う。人生は理不尽がたくさんあり、行為のみでどうにかなるものではない。しかし、善行をすることで、将来幸福にしたい、つまり人生をコントロールしたいという欲求があって、それが仏教に取り入れられたかもしれない。
また、差別もあると思う。世の中は理不尽で、努力でどうにもならず負けていく人を、あの人は善行をしなかったからだ、悪行をしたからだというレッテルをはる。

それではどうすればよいかというとただただ欲望を滅するのだ、それが愛でもあるのだ。他人になにかをしてあげたいと思うのも、穢れた欲望が潜んでいるかもしれないから。この点はアリストテレスの愛の観念でも書いた。