親の役割について
親の役割とはなんだろうか。人によって様々だが、今回は私の持論を述べる。
- 衣食住を満たすこと
私は親の役割はこれがほとんどだと思う。
- あいさつ、あんぜん、あとしまつ
これは私の母校にあったさんあうんどう。おはよう、いただきます、いってらっしゃい、いってきます、ありがとう、ごめんなさいの各種あいさつができ、安全を考えて行動する、簡単な片付けをすることができていれば、しつけのしっかりできた良い子であると思う。
- 悲しいのは母子が消費の王さまであること
福沢諭吉の『福翁自伝』では、学校に金をかけることは絶対的な親の役割ではないと言っている。矛盾にも、福沢は子どもを海外に留学させ、慶應義塾はボンボン学校となっているわけだが...
現代日本では、母子は消費の王さまである。さまざまな企業が母子をターゲットに欲望を煽る。そうすると塾はあたりまえよね、予備校はあたりまえよね、毎月1000円のお小遣いはあたりまえよね、毎月3000円のお小遣いほあたりまえよね、ケータイはあたりまえよね、パソコンはあたりまえよね、DSはあたりまえよね、wiiはあたりまえよね、 高卒はあたりまえよね、大卒はあたりまえよね、 というように、欲望を叶えるハードルが非常に高くなっている。これは、現代日本社会で子育てがキツイ要因の一つである。本当にこれらが必要なのかよく考えるべきだ。
そして、子どもの側も、衣食住とさんあ以上のことを親に望むべきではない。欲望というのは底無し沼だから一生抜けられないぞ。
内観技法とアダルトチルドレンのカウンセリング
内観法について
内観とは、日本生まれの技法である。
主に母親を中心に
- していただいたこと
- 迷惑をかけたこと
- してあげたこと
を思いだし、面接者に話す。
内観が終わったあと、いかに自分が母親を中心とした人々から愛されていたか感涙するのが典型である。
この技法のおもしろいところは、西洋のカウンセリングとは真逆だということだ。西洋、特にアダルトチルドレンのカウンセリングは
- してもらえなかったこと
- 迷惑をかけられたこと
- されたこと
をカウンセラーに話すのだ。
両方に欠点がある。内観の欠点は、この技法が良心を前提に成り立っていることだ。世の中の全ての親は善良で欲望がなく慈悲深いという前提がある。これは大乗仏教にも共通していることであるが、虐待はないことになっている。だから、たとえひどい虐待を受けたとしても親に感謝しろ、ということなのだ。子どもに依存し、感謝・恩を要求する親の子どもには向かない。
アダルトチルドレンのカウンセリング技法の欠点は、してもらえなかったことは底無し沼だということだ。有限のしてもらったことに対して、思い付けるだけ、してもらえなかったことは無限にある。だから、クライアントは一生カウンセラーのもとで愚痴を言い続けることになり、本質が改善されぬままカウンセラーが儲かる。これは、クライアントは成長なしに、欲望を発露し、消費しているだけである。
私は上手く両方を折衷したら良いカウンセリングになると思う。その手順は…
- 衣食住について親に感謝する
- 親の至らなかった点を考える
- 今自分のできることを考える
欲望社会と愛
欲望社会と愛
愛にも色々種類がある。古代ギリシアではフィリアという概念が、キリスト教ではアガペーという概念がある。これらも愛と訳されるが、それぞれ違う。
現在の経済は欲望をもとにまわっている。現代日本の愛もまた欲望がもとになって出来上がった概念である。
私は、多くの苦しみはこの欲望による愛によって起きると考えている。
たとえば、ある母親は愛する娘が不登校で悩んでいる。これは欲望による愛が原因で悩んでいる。母親は、娘の不登校でご近所で噂されたくないと欲望しているからである。この母親は、自分が娘のために心配していると思い込んでいる。
現代日本社会では愛は商品になっている。たとえば、ブライダル会社は愛する人と結婚して幸せになろうと宣伝する(そして医者や弁護士と結婚して自慢したい女の欲望を刺激)。学習塾は、教育こそ親の愛の表現だと宣伝する(そしてブランド大学に入れて自慢したい親の欲望を刺激)。こうした商品化が欲望による愛を加速させる。こうして、愛とは自分の欲望を発露させることだと思い込む人々で溢れる。欲望による愛により結婚し家族をつくるので、夫婦間、親子間で欲望喧嘩になるのは当然である。
そして人々はこう言う。こんなに愛しているのになんで自分の思い通りにならないの。
そもそも、子どもが生まれるのは両親の情欲の果てである。この状況で、無償の愛が生じる方が不思議ではないだろうか。私は、母親の押し付けがましい無償の愛は、社会的抑圧と、宗教的抑圧によるものだと考えている。
アリストテレスの記事でも書いたが、アリストテレスの研究者によると、愛とは自分の欲望を滅することだという。
資本主義社会
私が”資本主義社会”という言葉を意識するようになったのは、そう、中学生の時のこと。
私の担任の先生は言った。「あなたの両親は貧しい。だからあなたの夢は叶わない。資本主義社会なんだ、わかるだろう。」
なんてひどい言葉なんだろう。でも、いまから思えばこれは珠玉の言葉であった。10年努力したって本当にそうなったんだから。
でも打開策はあるかもしれない。
”私”とは何か②
自分が何者かわからないのは、人と人との関係性が弱いから。
私は誰かを決めるのは人と人との関係性であって確固たる私があるわけではない。
"私"とは何か①
二か月前に私は”消えたい”という消極的な記事を書いた。
それは今も同じでへとへとに疲れると特急列車に突っ込みたくなる。
そんな状態だが、この二か月で少しは好転した。
それは固定した”私”がなくてもとりあえずは生きていけるじゃんか、ということに気が付いたことだ。
私がだれかわからなくても、とりあえずは明日は来る、ということ。
ただ、不便なことがある。それは他人に不信がられることだ。
日本人のアイデンティティ=私はどこの集団に属しているか、で決まる。
私は集団に所属していないから、いつも質問攻めにあう。
「どこの大学ですか」「どこの会社ですか」...etc
そして、いくら説明しても相手を納得させられないから、相手は不安がるのだ。
そこで私は信頼できる仲間以外は数年前から嘘をつくようにしている。
私はもう根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だから、三年近く美容院に行っていない。
もし美容院に行ったらこんな会話になるだろう。
美「お仕事何されてるんですか?」
私「平日休みの仕事です」
美「へー。平日休みじゃぁ接客業ですか」
私「そーです、そんなかんじですー。」
美「え、じゃぁ販売とかですか?」
私「そーです、よくわかりましたね(驚)。美容師さんも平日休みですよね、平日休みだとお店すいてていいですよねー?」
こんな感じで、相手の脳内に合わせて嘘をつくと、相手は勝手に解釈をして安心してくれる。そして、なるべく早めにこちらの話を切り上げて、質問をするのだ。こうすることで、どうにか固定された私がない状態=集団に所属していない状態で生きてきた。
嘘をつくことに対する罪悪感があって、知人に相談をした。彼によれば「そんなこざかしいことをしないで、私は変人でーす、根掘り葉掘り聞いてもわけわかんないだけですよーって言っちゃえばwあなた変人だからwww」って言われた。それができたら苦労しないんだけどなー。