blog

ブログ

閲覧ありがとうございます

ただ欲望が発露され、金だけが流れていく

欲望によってただお金が流れていく世界。
そんな世界ならいっそのこと…。

例えば、美容院。トリートメントって髪をいためていくのって知ってた?トリートメントは、髪本来の質を改善するんじゃないんだよ。髪の表面をコーティングしていてよくみせてるだけ。いつかはそのコーティングが剥がれるわけだけど、その際にはどんどん傷んでいくんだよ。

例えば、塾。通っている子どもはほとんどが成績上がらないって知ってた?上がったとしてもほぼマグレなんだよ。ごく一部本当の意味で上がる子もいるけど、それは塾じゃなくてその子の努力なんだよ。塾は子どもの教育の場じゃなくて、親の欲望を叶えるところなんだよ。

効果がないのに、効果があるように感じさせる。そこには、欲望が発露され、ただ金が流れていくしかない。

満員電車

今朝の満員電車はいつもより増して混んでいた。たまたま飛び乗った電車が女性専用車だったのだが、鮨詰め状態で、まるで人間のための箱ではなかった。

そんな電車に乗って考えた。私は電車という箱に詰められて、各会社に納品されているんだ。とてつもなく大きなシステムに組み込まれ、そこから逃げ出せない気がする。私は歯車の一つでしかなく、意志は持ってはいけない。ただ、需要と供給の原則に従って、流れていくしかない。

今の状況は間違っている、たぶん。しかし、社会は変えられないから、自分が変わるしかない。どう変えようか。

日本という国が機能不全

アダルトチルドレンの考え方では、家族が機能不全だとアダルトチルドレンとなると考える。
機能不全な家族が存在するには、機能完全な家族が存在しなくてはならない。そんな機能完全な家族なんて存在するのか。機能完全な家族の定義はあるのか。
自殺大国日本は機能不全社会だとはいえないか。そもそも機能完全な国家などあるのか。アメリカでさえも超格差社会でる。
完全、完成、完璧なんて実現できるのだろうか。

④生物学的、心理学的、社会学的、

生物学的、心理学的、社会学的な母性について紹介しました。

これらをまとめて私の考えでは、母性という概念の「無限性」が、多くの苦しみをうんでいるのではないかと思います。

例えば、お母さんの立場の場合、子どもの食事について、お友達について、健康について、教育について…といろいろ心配しなければいけません。しかし、生物学的・心理学的に考えれば、そんなに考える必要あるの!?と思います。つまり、衣食住が満たせて一緒に遊んだり絵本を読んだりしてあげてるなら十分立派なお母さんなんじゃないでしょうか。世間一般がお母さんにいろいろ期待しすぎなんじゃないでしょうか。

また、子どもの立場の場合、母親っていうものは子どもを無限に愛するべきなんだ!と思ってしまうことが、対人関係に悪影響を与えていると思います。私は母親から完全に無限に愛されなかった。だからそれはほかの人から補完されて当然だと考えている信念が対人関係に悪影響を与えてしまいます。

③無限

さて、母性とは、生物学では生殖的な機能、心理学では養育行動、社会学では文化的に作られたもの、とみてよさそうです(母性は学術的用語じゃない!念のため)。

私は母性がないんじゃ?という悩みを持つお母さんが多いそうですが、

おなかが大きくなったんですよね、出産できたんですよね、生物学的には立派な母性をお持ちです!

撫でたいなぁかわいいなぁと思ったんですよね、手をつないで一緒に遊んだんですよね、心理学的には立派な母性をお持ちです!もちろん生物学的な母性機能がなくても、ほかのお子さんを見てそう思うなら、立派な心理学的母性をお持ちです!

と声を大にして言いたいです。

しかし、社会学的な母性はクセモノです。

私は母性がないんじゃ?と思わせる要因だと思います。また、子どもにとっても苦しみの原因になると思います。

世間一般では、子どもはお母さんが育てるのが一番安心だ、という考えがありますが、社会学の分野では疑問視されています。

②無限、完全という概念―生物学・心理学・社会学の母性概念―

生物学では、母性はかなり限定的に捉えられています。

お母さんが妊娠すると、おなかが大きくなったり、脳内にオキシトシンという物質が分泌されます。こうした生殖に関する体の変化が生物学でいう母性のようです。

 

心理学でも、素朴な感じで捉えられてます。

人もひよこも赤ちゃんって丸いフォルムですよね。つい撫でたくなっちゃいますよね。

つい微笑んじゃいますよね。このように赤ちゃんはこうした感情を誘発するフォルムをもっています。こうした感情をマザリングといっています。ちなみに、有斐閣 心理学辞典には「母性」という言葉は載っていません。

 

社会学では、学者によって見識は異なるのですが、母性とは、他者に依存し献身的に支えるという社会的文化的な特性であるとされています。常識では、本能的に女性に備わっているとされていますが、社会学では、文化的にあとから作られたものであると考えるのです。特に、大戦中の天皇制と結びつき、つくられたという考えがあって、とても興味深いです。自分の子どもを喜々として戦争に送る母親と、自分の子どもを喜々として受験戦争へ送り込む母親は近いものを感じます。もちろん、そうではない母親の方が多いですし、母親だけが悪いのではなくて社会が母親にそうさせているという面もあります。

 

このように、母性と一口に言っても学問分野によってずいぶん違います。

子どもが将来の夢を強制されない社会へ

人は観念に支配されている。特に、みんながもっている観念=共同幻想に支配されている。

共同幻想とは、例えば、母親とは全てを犠牲にして子どもに尽くさないといけない、などの固定観念である。日本社会にはこうした母性神話が前提でシステムができているので、全てを子どもに尽くさない、尽くせない母親や、その子には辛い。その結果虐待がおこることもある。そしてこの共同幻想は、支配者や多数者の都合がよい幻想なのである。

このように、人のための観念、システムではなく、観念、システムに人が強いられている。これは、日本の教育の時点からそれははじまっている。
たとえば、良い大学を出ないと良い職を得ることができず、生きていけないという。良い大学に入るには、良い高校に入らなくではならず、良い高校に入るには、良い中学校に入るべきである。良い中学校に入るには、良い小学校に入るべきで、良い小学校に入るには、良い幼稚園に入るべきである。良い幼稚園に入るには、親の多額の献金と、社会的地位が必要である。それができない場合は子どもを塾に入れて受験戦争で死ぬ気で勉強しなければならない。これは紛れもなく、システム、幻想のために人が強いられている。私の高校時代の同胞も、辛い受験戦争のために鬱になった。

子どもに将来の夢を持つよう強いるのは、酷ではないか。
将来の夢も幻想である。それが生きる活力になるなら構わないが、将来の夢を持たせることが、商売になってないか。
例えば、将来イラストレーターになりたい女の子がいたとする。この女の子 が学校の先生に相談すると、イラストレーターを目指す学校があると言う。その学校に行くためには、美術専門の塾に行かなくてはならないという。それで、その女の子は塾に多額のお金を払い、学校入学の際には奨学金という名の学生ローンを組んだ。しかし卒業した後に仕事が見つからず、今では全く別の仕事をしている。いきる意味に悩み、自害してしまった。結局、ただ金が巡って学校や塾が儲かっただけである。
この女の子の別のシナリオを考えてみる。女の子は、ネット上でイラストを公開してみた。しばらく続けると、自分なりのテイストができてきた。ある日、突然、壁紙にしたいから大きいサイズでアップロードしてほしいというメールが届いた。それから、パソコンやスマホ向けのイラストをアップロードするようにした。するとある日、私のサイトの挿し絵を書いてくれませんか、というメールが届いた。こうして女の子は代金をいただき、イラストレーターとなった。高校卒業後、事務員をしながら、イラストレーターの仕事をしている。
この後者の女の子のシナリオでは固定観念に縛られなかった、ゴールとその道程を決めなかった。そしてまた夢を持たなかったことである。

今回はイラストレーターであったが、医者など社会的地位が伴うと親の欲望も絡む。また、弁護士の法科大学院問題のように、そもそも仕事をするには資格が必要でそのためには、絶対的に多額の資金が必要となると事態は深刻である。

よく、子どもが夢をもてない日本社会は終わった、と書く人がいる。私も概ね同意である。これに付け加えるとしたら子どもが将来の夢を強制されない、それが金儲けの手段とならない社会になって欲しい。