希望を捨てる
私は全財産が段ボール二箱だけ。
片付けをするとまるで遺品整理をしている気分になる。よく気の毒がられるが、これは私の好みで、とても身軽だ。
ついこの間、希望さえ失ってしまった。
しかし、失ってみて思うことは、希望がなくても生きていけるということだ。そもそも希望の成分は何だろう。自分の内側から沸き上がる何かではなさそうだ。きっと外付けされたものだろう。だから、私も能動的に希望を捨てたい。こんなもんいらないやと希望を捨てて、今を全力で生きてみたい。
過労死と教育
今となってはもう昔のことだが、塾にゆうきくん(仮名)という子がいた。彼は小学六年生で、中学受験をするために、勉強一筋の毎日を強いられていた。
ゆうきくんはとてもおとなしい子で、蚊のなくような声である。たまに私に好きなゲームについて教えてくれるがわずかしか聞き取れない。そんなゆうきくんがある日、担当講師にはっきりとした声で「どうして勉強するの」と質問をした。講師からは「お母さんのため」、「勉強しないとどこも雇ってくれない、生きていけないから」などと説明していた。ゆうきくんは納得したのだろうか。その質問は、きっと大変勇気のいることだったに違いない。
私はゆうきくんに、勉強の楽しさを教えてあげるべきだった。人生一生涯勉強であり終りなんてないこと、だから私も先生とは名ばかりであり未熟であって勉強途中であること、ゆうきくんと一緒に勉強できてとても楽しいこと。でも、受験生に勉強を楽しむ余裕なんてないのだ。だから、私は心の中でゆうきくん、ごめん。と呟いた。
受験直前の冬期講習のことだった。「死ぬ気で勉強しろよ。」ゆうきくんの担当講師の熱弁が聞こえた。
ゆうきくんは、今頃はもう高校生だろうか。社会人になったら、どんな社会人になるんだろう。もう二度と勉強なんてしたくないと思うのだろうか。家族のため、生きていくため、疑問を持たずに死ぬ気で働き続けるだろうか。もし、そうなってしまったら、塾に、私に、どのくらいの責任があるのだろうか。
時間が早くたってほしいなぁ
仕事中、または授業中、「早く終わんねーかな」なんて思わないだろうか。
私はしょっちゅう(笑)
そんなとき、時間を早く感じる方法に時計をみないというシンプルな方法がある。
時報がなるまでとにかく時計をみない。集中して作業または授業に取組めれば尚よい。
どうしても見たいときは、三回みたいなと思ったら見る、という風にして、見る回数を減らす。
このような工夫をすると、いつの間にか「気づいたらあと一時間、ひゃっほーい」ってなりますよ(笑)
私のせい?
日常で起こっている様々な出来事を、いちいち「私のせいだ」と思って自分を非難する人がいる。それは自分を過大視しすぎていることにより起こる。